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ST MAGAZINE - 教育支援員のご紹介 -

失語症である私が教育支援員として教育に協力する理由

三谷誠宏さん

昭和12年生まれ。文具メーカーの営業職として勤務していた50歳の時、くも膜下出血を発症。右半身麻痺と失語症(重度)となった。入院や外来でのリハビリを経て現在に至る。趣味は、病後から始めた陶芸や水泳、グランドゴルフ、書道など多数。

興子さん

誠宏さんとの結婚を機に家庭に入り、三人の子どもを育てる。誠宏さんが倒れて以降、誠宏さんのリハビリや生活を共に歩む一番の支援者であり、理解者。

失意の中、言語聴覚士がひらいた日常への扉

笑顔で取材に答える三谷誠宏さん

「満足は努力の中にあって、結果にあるものではない」
───マハトマ・ガンジー

豊かな表情と大きな身振り手振りで半生を語る三谷誠宏さんと、隣で補足をしてくれる妻の興子さんを取材していると、そんなガンジーの言葉が浮かんだ。言葉は失われても、精力的に活動する三谷さん。50歳で失語症と右片麻痺となった後に達成した日本一周ひとり旅は、当時テレビ番組でも取り上げられ大きな反響を呼んだ。

誠宏さんは何かを発言しようとするとすべての言葉が「きょっとんとん」という、意味のないフレーズになってしまう。テキストとして意味は持たないが、会話の中ではボディランゲージに加えて、声量やイントネーションで誠宏さんの言わんとすることはこちらに伝わってくる。気さくに誠宏さんと「会話」することができるのは、きっと誠宏さんがコミュニケーションに積極的だからだろう。

誠宏さんは、大阪保健医療大学言語聴覚専攻科で開かれる学生との対話会に2001年から参加し、今も言語聴覚士の養成に協力している。誠宏さんも興子さんも、言語聴覚士を目指している学生たちには、「相手を理解し寄り添える言語聴覚士になってもらいたい」そうだ。

教育支援員はライフワーク

失語症という障害を聞いたことがあるだろうか。失語症とは、一度習得した〈話を聞いて理解する、話す、読む、書く〉など、言葉に関わる機能が多かれ少なかれ障害され、コミュニケーションが困難になる状態のことを指す。例えば、ある言葉を音として捉えることができてもその意味を理解できなかったり、頭の中で考えていることをそのまま言葉として発することができなかったりする。ある日突然、言葉が通じない環境に置かれてしまう状況を想像すると、当事者の衝撃や不安は想像に余りある。

NPO法人全国失語症友の会連合会の調査(2013)によると日本では現在、推定20〜50万人程度の失語症患者がいるとされる。発症時の年齢はまだまだ働き盛りの40代から50代が過半数を超え、出張中にくも膜下出血で倒れた三谷誠宏さんもまさに50歳の頃だった。

2019年現在、82歳の誠宏さんのライフワークは、失語症者とはじめて出会う学生とお話をする対話会に参加することだ。対話会は、2001年にはじめて大阪リハビリテーション専門学校(大阪保健医療大学の前身)で開かれた会で、失語症者が教育に参加するこの取り組みは、やがて近隣の複数の養成校でも取り入れられ、現在も継続されている。そして、2016年には大阪保健医療大学で、彼らを「教育支援員」と呼ぶ独自の学内教育システムがつくられた。「養成教育に協力し、大きな教育効果をもたらし貢献してくださる方々にふさわしい立場をつくりたかった」と言語聴覚専攻科主任の大西環先生は語る。

対話会の開始当初から欠かさず参加する誠宏さんを見て、「(言語聴覚士を目指す)若者のストレートな考え方や接し方が新鮮で、パワーを貰うのか帰りはいつも笑顔です」と妻の興子さん。2001年にはじめて開かれた対話会に参加した失語症者は誠宏さんを含めて複数人おり、今も参加されている方が多い。そんな誠宏さんが対話会に参加するきっかけをつくったのは、退院後にリハビリを担当した協和会病院の言語聴覚士、故・柏木敏宏先生だったという。

雑談をしているかのような評価・訓練

自動車での単独日本一周、水泳のメダルやトロフィー、節回しだけの歌唱で出場したカラオケ大会の楯、庭先に自身でつくったウッドデッキ、リハビリもかねて始めた左手だけでつくる陶芸など、すべて誠宏さんが失語症となった後に達成した事柄だ。今となっては想像し難いが、発症当時は意識がはっきりとせず、誠宏さんには当時の記憶はあまりないそうだ。重い言語障害と右片麻痺が生じ、言語聴覚士からの呼びかけにわずかな反応しか示せない夫の姿に落ち込んでいた興子さんは、ある日驚きの場面を目にした。

リハビリを担当していた柏木先生がある日、突然「わたしと囲碁を打ってみましょうか」と碁盤を取り出した。その瞬間、誠宏さんが左手でゆっくりと碁を打ち始めたというのだ。「この人の頭の中はまだ可能性が残っている!と涙が出るほどうれしかった」と当時を振り返る興子さんは今でもその衝撃的な瞬間を思い出すそうだ。

妻の興子さん

柏木先生のリハビリはまるで雑談をしているかのようだったと興子さんは振り返る。取材に同席した大西環先生は「三谷さんもそれと気づかないくらい自然に、何気ない会話の中で評価と訓練をおこなっていたのではないか」と指摘する。誠宏さんが伝えようとしていることを汲み取り、わずかな反応を逃すことなく、三谷さんの能力を診ていたというのだ。

誠宏さんが制作したウッドデッキにはリハビリの思い出が詰まっている
誠宏さんが日本一周をしたルート(赤線)

主体性を引き出す柏木先生の問いかけ

私たちが言葉を理解し発話するプロセスとはどのようなものなのだろうか。普段は意識していないが、簡単に考えても相手の情報を聞き、理解し、自分の答えを考え、発信するという工程を経るだろうということは想像がつくだろう。

柏木先生は誠宏さんに声をかけながら、その反応を見ることで「話を聞いて理解する」機能を評価し、どのような働きかけが訓練へとつながるのかを模索されていたのではないだろうか。興子さんが「言語の検査が続いた頃は嫌になっていた」と当時の誠宏さんの様子を振り返る。繰り返される言語機能の評価が、当時の誠宏さんにとっては辛く感じられたのかもしれない。

一方で、柏木先生のまるで雑談(のような問いかけ)を通じた関わりは、どれほど誠宏さんの気持ちを救っただろうか。はい・いいえで答えられるような短い呼びかけや、聞いて理解する力を確認するような少し長めの問いかけ、さらには思考や行動を促すような巧みな働きかけが、誠宏さんの主体性を引き出したのかもしれない。

寄り添うことと役に立つこと

誠宏さんはリハビリを繰り返すうちに意識もはっきりとし、判断力も日常生活に問題がないレベルとなった。ある時、同じく右片麻痺の患者さんが自動車運転をしているのを目にし、自分ももう一度運転したいと希望。教習所で視力や判断力の適性検査を受け、練習を重ねて左半身だけでも運転が可能だと判断された。自家用車を改造し、ここから誠宏さんの世界がどんどん広がったそうだ。一方、「話す」機能や右片麻痺の回復は残念ながらあまり見込めなかった。訓練を繰り返して自分の名前や簡単な単語を100語ほど発話できるようになったが、それを使うことは難しく、何か言おうとするといつも「きょっとんとん」という発音になる。リハビリや日常生活を通して、身振りや表情、声のトーンなどによるコミュニケーション方法を確立していったそうだ。

日常生活で細かなニュアンスを伝えるには、自作しているコミュニケーションノートが役に立つ。コミュニケーションノートには、「コンビニはどこですか」「トイレを貸してください」などの文章や単語があらかじめたくさん書かれている。失語症では自由に文字を思い出して書くことが難しいため、筆談も困難になるそうだ。いろいろな場面を想定し、興子さんと一緒につくったコミュニケーションノートは、たったひとりで日本一周に出た際も大いに活躍した。目的地までの経路を尋ねたり、自動車修理を依頼したり、必要なことをおこなうことができた。また、旅行期間中の安否確認として、当時、有馬温泉病院の言語聴覚士だった熊倉勇美先生に助言いただき、毎日興子さんへの絵葉書を欠かさなかった。これは非常に実用的だったという。どちらも誠宏さんの言語機能(話す能力、聞いて理解する能力、書いて伝える能力、文字を読んで理解する能力)を把握し、誠宏さんと興子さんの気持ちを理解していなければ思いつかないものだ。

筆談で答える誠宏さん

雑談のようなフリートークで評価や訓練をおこなった柏木先生、旅や日常の中で必要なやり取りの指導をした熊倉先生。両先生ともに、三谷さんの能力や性格をきちんと見極め、誠宏さんと興子さんに寄り添ってリハビリをおこなった。そうした働きかけは、三谷さんの能力を発見することにつながり、そして周囲がそれを認める過程となった。このように失語症者の状況や環境を踏まえ、適切なリハビリを提供できるようになることが、誠宏さんの言う「相手を理解し寄り添える言語聴覚士」なのだろう。

誠宏さんと興子さんは言語聴覚士を失語症者の代弁者だという。言葉や気持ちを引き出し、できることを伸ばし、生きがいをともに見つけていく。そのためにまず必要なことは、相手を理解することなのだろう。

「主人が困るくらいに積極的に話しかけてくれてもいいのに、学生は遠慮があるのか話を聞いてくれる子が多いかな」と興子さん。誠宏さんと興子さんは教育支援員として対話会に参加する中で、これまでに出会った言語聴覚士の姿を学生に重ねながら、「寄り添える言語聴覚士」になるきっかけを掴んでもらいたいと考えているのだろう。

誠宏さんらしいと興子夫人が話す標語の入った自作の飾り皿

これまでの半生を振り返りながら、興子さんは「失語症になったからこそ見えたものがあった」と言う。その言葉に深くうなずく誠宏さん。失語症になってはじめて気づいた世界と関係性、そして、生き方。

ー明るく 楽しく たくましくー誠宏さん自作の飾り皿に書かれたその文字は、興子さんが言う通り、誠宏さんの生き方そのものだ。そこには私たちが学ぶべきことがたくさん存在する。それらを直接感じさせ、教えてくれる人。これが大阪保健医療大学で実践する教育支援員の意味なのかもしれない。

(文=浅野翔/デザインリサーチャー)

参考文献

1)NPO法人全国失語症友の会連合会編 失語症の人の生活のしづらさに関する調査 2013
2)柏木敏宏:慢性期失語症の改善そして失語症者の社会貢献 高次脳機能研究 23:191‐199.2003.

学生生活や卒業後の姿を想像できたのはここだけだった。前の記事へ 一覧へ戻る [インタビュー] 対話会の行方|1部 対話会のはじまりと教育...次の記事へ

卒業生の声

人生をかけた30代の転職、本当に本当に悩みました。
でも、今、毎日が充実していてすごく楽しくて幸せです。
あの時STになる道を選んで本当に良かった。

2014年度修了 急性期病院勤務